静けさの中での闘志 - エッセイ

エッセイ 「静けさの中での闘志」

上田紀行(文化人類学者、東京工業大学大学院准教授)


ひとりの僧侶が私たちの目の前にいる。彼は自分の人生を淡々と語る。
遠くから見ればその姿は穏やかで、心の修練を積みながら年齢を重ねてきた老僧そのものだ。しかし、ひとたびその人に近づいてみれば、その静かな語り口の中に秘められた力、その目に宿された強い炎に私たちは身じろぎもできない。
雪の下の炎・・・このタイトルは、まさにこの映画を象徴している。

この映画に映っているのは“闘志”である。
私はいまだかつて、このようなとてつもない闘志を見たことがない。もちろんスポーツを、それも格闘技などを見れば、そこに激しい形で瞬間的に表出される 闘志を見ることができる。しかし、このような静けさの中での闘志、それも半世紀も続く闘志=闘うこころざし=をいったい私たちは目の当たりにしたことがあ るだろうか。
33年にわたる投獄。筆舌に尽くしがたい拷問。それでもくじけない。闘い続ける。
そして、牢獄という苦しみから解放された後も、闘い続ける。

その闘志の根源はいったいどこにあるのか。
仏教の僧侶と“闘志”とは似つかわしくない、と思う人もいるだろう。仏教とは心の平安を追究する教えだ。それが「闘い」とは何事だ。特に日本の僧侶達はそんなことを言いそうだ。
しかし、2年前にダラムサラでダライ・ラマ14世と2日間対談させていただいたとき、「弱者への差別や暴力を見ると、怒りの気持ちが湧き上がってきま す。しかし日本の僧侶たちの中には、そんなことで怒っているのは修行が足りない。何が起こってもニコニコ暮らせ、と言わんばかりの人もいます。仏教徒は 怒ってはいけないのでしょうか?」という私の質問に、ダライ・ラマ14世は毅然として答えた。
「怒りには、慈悲から生じるものと、悪意から生じるものという、二つのタイプがあります。心の根底に他者に対する思いやりや慈悲があって生じている怒り は、有益なものであり持つべき怒りです。他者を傷つけたいという悪意から生じる怒りは、有害で鎮めるべき怒りです。悪意からの怒りは人に向けられます。し かし、慈悲からの怒りは人に対してではなく、行為に対して向けられます。ですから原因となる行為が無くなれば、怒りも消滅するのです」
それまで快活に話されていたダライ・ラマ14世が、俄然エキサイトし、身を乗り出して熱く語り出した瞬間だった。そして、「それでは社会的不正に対する怒りは、その不正がなくなるまで、ずっと持ち続けるべきなのでしょうか」と問いかけると、
「そうです。その目的が果たされるまで怒りの気持ちは維持されるべきです。たとえば、中国が人権を侵害し、拷問を続けているといったような、ネガティブな 行為が続いている場合、そういった間違った行いが存続している限り、それをやめさせようという怒りの気持ちは最後まで維持されるべきなのです」と答えられ たのだった。(『目覚めよ仏教!—ダライ・ラマとの対話』NHKブックス)
慈悲の菩薩である観音菩薩が建国したチベット、そしてその化身であるダライ・ラマ14世は、愛からの怒り、慈悲からの怒りを語った。慈悲があればこそ、 怒るのだ。利他の心から、差別や暴力に対して敢然と立ち向かうのだ。もしかしたら、そのときダライ・ラマ14世の脳裏には、何日間も対話を積み重ねたとい う、パルデン・ギャツォの姿が浮かんでいたのかもしれないと、この映画を見て、いま思う。

しかし、パルデン師は数限りない拷問と、想像を絶する獄中での苦難を振り返りながら、こんなことをつぶやく。
「暴行の責任がすべて彼らにあるわけではない。殴り方が甘いと、彼らも職を失うことになる。愛国心が足りないと、非難されるのだろう」
非人間的な暴力で自分を痛めつける者に対しての、この慈悲のまなざしはいったい何なのだろう。
アメリカでの著名な社会仏教行動家であるジョアンナ・メイシー女史の本にも、透徹した慈悲のエピソードがある。ある時、彼女の求めに応じて、親しい僧侶 がそれまで話すことのなかった、中国軍が彼らに対して行った、残虐きわまりない物語を語った。ショックを受け、彼女は湧き上がる悲しみと怒りにため息をつ くしかなかった。しかし、僧侶はこう言う。
「かわいそうな中国人たち――こんなにひどいカルマ(業)をつくってしまって」(『世界は恋人 世界はわたし』筑摩書房)
ここまでの次元の慈悲を人間は持つことができるのか! メイシー女史を揺り動かしたこの感慨は、おそらく私たちがこの映画を見て感ずる思いと同一のものだ。

私たちのその思いはどこに向かうのか。
映画には映っていない一人の人物がいる。大学時代にパルデン・ギャツォの存在を知り、数年後にニューヨークで彼の自叙伝を読んで、霊感に打ち震えた人物 だ。私は監督とお会いしたことはないが、ダラムサラに師を訪ね、トリノに同行して映画を撮るという行動が、パルデン師の存在を知ってしまった彼女の、やむ にやまれぬ行動だったのだということが、この映画を観て痛いほどわかる。
パルデン・ギャツォという、雪の下の炎は、私たちの慈悲を目覚めさせ、私たちの心にも熱い火をともす。そう、次は私たちが行動する番なのである。